タイヤとホイールへのこだわりに応え、今もなお成長を続けるカーポートマルゼン。
だがその社史とはほど遠く、決して安全走行ではなかった。
創業から現在に至るまでの、波乱万丈なカーポートマルゼンの軌跡を紹介します。
米岡善祐がパンク修理業を営み始めたのはおよそ60年前。創業の地は大阪府。わずか10坪の場所に、カーポートマルゼンの前身「丸善タイヤ商会」は誕生した。
まだ駐車禁止違反の法律がなかった時代。自宅の駐車場も近所の通りも、全部がピット。どこからどこまでが店か分からない、路上のパンク修理屋だった。創業時の大阪は保守的な土地柄で、周囲からの歓迎もない苦悩の日々。そんな時代にカーポートマルゼンは小さな一歩を踏み出した。
大卒初任給が1万円にも満たない頃、パンク修理は1回200~400円。1日に何件もの修理を行うが一人で抱えることができる仕事にも限界があった。更に、パンク修理は大きなリスクとも隣り合わせ。修理中に劣化したチューブが破損すると、すべてを補償しなければならないということも。パンク修理だけで食べていけない…。米岡善祐の妻は街へ灯油を売りに行って家計を支えた。
前会長・秀高の入社をきっかけに新たな一歩を踏み出す。
オーディオをメインに、ステアリング、レーシングウェアなどカー用品を販売するレーシングスタジオ丸善、小さな量販店となる。25坪の土地に10坪のピット。残りを店舗にした量販店に、あるホイールメーカーから新ブランド販売の話が…。小さな会社だったマルゼンは悩んだ末、多額の契約金を支払い、新ブランドのホイール販売を始めた。これが大きな転機となる。
3年連続一位の売上を叩き出し、ウワサを聞きつけた同業者が取り扱いを始めても、一位の座を死守。お客様の口コミが新たなお客様を呼び、店内はいつも遠方からのお客様で溢れるまで繁盛することに。
カー用品チェーンがフランチャイズ化するなど、破竹の勢いで成長した時代。市場規模の拡大は追い風だったものの、真正面から勝負するにはあまりにも力の差が。このまま同じ土俵にいては、負け戦になる。そう判断した秀高は、専門特化の道を選択する。
売上の8割を占めていたのは、オーディオ。しかし、タイヤとホイールに一本化するという勝負に出たのだ。そしてこの選択が、今に続く未来を切り拓くこととなる。
行った初の試みは店舗展開だった。
ついに駐車場付きの店舗、北大阪店を出店した。これを機に、カーポートマルゼンはタイヤ・ホイールを扱う専門商社としての地位を確立
していくことに。カーポートマルゼンの快進撃が始まる。
いくつもの苦難を乗り越え、2005年には本店を移転。2007年には関東エリアへの出店を果たす。店舗の拡大と同じく注力したのが、物流戦略に通信販売。在庫を大量に抱えることによる即時対応を可能にるすため、2003年3月に物流センターを設立。通信販売では雑誌通販から開始し、業界に先駆けてECサイトの構築にも着手。スマートフォン対応への先行投資が功を奏し、ネット販売の売上は一気に拡大。全体の売上を大きく押し上げる結果となる。
2009年から関西圏にテレビCMを開始。「タイ~ヤマルゼン♪タイヤマルゼン」という軽快なフレーズとユニークな演出が話題を呼び、顧客獲得に成功。2014年には放送エリアを全国に広げ、知名度は一気に広がった。以来、売上も社員数も、右肩上がりで成長を続けている。多くの紆余曲折を経て、10坪のパンク修理屋はタイヤとホイールを扱う専門商社へとドレスアップし、次の歴史を刻むために更に前へと歩みを進める。
知名度があがり、売上も上がった。
だが、これまでと変わらず走り続ける。
カーポートマルゼンに現状維持という言葉はない。
新たな変化を巻き起こすため、
これからも止まることなく進み続ける。
更なる事業拡大のため、全国展開や海外進出など、
まだまだ可能性は無限にある。
2024年の今、新たな歴史を歩むべく、
新たな人材の力が必要だ。
カーポートマルゼンの掲げる100年企業へ。
更なる挑戦で進化し続ける。